人がいやがること

開祖の肖像を絵にすることをタブーにしている宗教がある。数億人という人数の人の生活、人生と密接に関係している。
それだけ嫌がる人がいるのに、表現の自由の名のもとにあえてそれをやるか?
面白ければいいのか?
エスプリなり皮肉なりジョークなり風刺なりがあればいいのだろうか?

政治家とか芸能人とか、皮肉や風刺やジュークの対象として不快を感じることがあっても、公人、特殊な立場にいる人は有名税ともいうべきものを課せられていて例外かもしれない。
だが、数億人は普通の人なのだ。

責任と理知が必要なはずの「自由」が、その自制、自重を失い、「表現による暴力」になり下がった時、そういう表現をする人たちを評価しないこと、あるいはその表現活動が、すでに反社会的な領域であると、自ら考え判断することが必要じゃないかと思う。

おじさんの醜い全裸を見た街中の数十人は、気分悪いだろうな。だがそんなに深刻じゃない。むしろ飲み屋や会社のパントリーの話題のひとつを提供する程度だろう。

どちらが罪が重いだろう。

垂れ流しのメディアしかなかった。受け側でしかなかった。
しかしネットは双方向のメディアになった。自ら発信し、自ら選ぶことが可能になった。

自分が何を読み、何を書くか。
書くときに、何を考えるか。

自由であると同時に責任がある。
権力や暴力による制限ではなく、そこにはおのずと、自制と自重が必要だろう

関連キーワード

関連ページ

暴力の行使と事件
俺は暴力によるメディアの襲撃や恫喝の類には断固反対する。フランスのテロもそうだし、日本においても、芸能人と称する無頼漢が、メディアの事務所で暴れたなどのことは、決して支持しない。主張のヨシアシではない。もしかしたら襲撃したほうに、理はあるのかもしれない。だが、その手段を使うこと自体を社会は許容すべきじゃないと思うし、そんな手段をとった人間とは俺は付き合いたくない。言葉を聞きたくない。拒絶する。国家
発信者として
ネットがいきわたり、インフラの整備されている地域に住む人であれば、ほぼ誰もが、表現者になり発信者になりうる。こうして文章を書き、WEBに挙げるなりSNSにするなりすれば、パブリシャーになりうる。俺たち日本の大人は義務教育はもちろん、かなりの人が高等教育までうけている。基礎的な読み書きの教育は受けた、しかし、表現者になるための教育、訓練や、表現を選り分け評価するとい観点での教育、訓練は学校でのトレー
表現の自由
自分の万引きや、食品への異物混入の犯罪現場を動画で撮影し公開して逃げているのがいる。愚かしいただの犯罪でしかないのだが、これを表現行為、芸術行為だと主張したらどうなるかと思考してみる。これは食の安全に警鐘を鳴らすための表現行為である。現代社会の矛盾を身をもって表現しているのだ。俺の表現行為を制止するのは表現の自由に対する冒涜行為である。自分で書いていて頭が痛いw例えば、おじさんとじ~さんの狭間にい
人がいやがること
開祖の肖像を絵にすることをタブーにしている宗教がある。数億人という人数の人の生活、人生と密接に関係している。それだけ嫌がる人がいるのに、表現の自由の名のもとにあえてそれをやるか?面白ければいいのか?エスプリなり皮肉なりジョークなり風刺なりがあればいいのだろうか?政治家とか芸能人とか、皮肉や風刺やジュークの対象として不快を感じることがあっても、公人、特殊な立場にいる人は有名税ともいうべきものを課せら