暴力の行使と事件

俺は暴力によるメディアの襲撃や恫喝の類には断固反対する。
フランスのテロもそうだし、日本においても、芸能人と称する無頼漢が、メディアの事務所で暴れたなどのことは、決して支持しない。主張のヨシアシではない。もしかしたら襲撃したほうに、理はあるのかもしれない。だが、その手段を使うこと自体を社会は許容すべきじゃないと思うし、そんな手段をとった人間とは俺は付き合いたくない。言葉を聞きたくない。拒絶する。

国家や権力や暴力による表現の自由の制限には、断固反対し立ち向かう一人でありたい。
また暴力の犠牲になった人たちの冥福を祈り、残された家族と友人の悲しみに寄り添いたい。

一方、標的になったメディアに問題がないとも思わないが、過去のあるいは、事件になっているメディアの姿勢を直接的に云々することを目的にはしていない。
問題は、俺自身なんだ。

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