発信者として

ネットがいきわたり、インフラの整備されている地域に住む人であれば、ほぼ誰もが、表現者になり発信者になりうる。こうして文章を書き、WEBに挙げるなりSNSにするなりすれば、パブリシャーになりうる。

俺たち日本の大人は義務教育はもちろん、かなりの人が高等教育までうけている。基礎的な読み書きの教育は受けた、しかし、表現者になるための教育、訓練や、表現を選り分け評価するとい観点での教育、訓練は学校でのトレーニングではなかったように思う。

学校で何を教えるべきかというのは時代によって変わるべきだし、変わればいいことだと思う。むしろ変わらないままでいることが問題だろう。
新しいことを誰が教えるんだ?という課題は出てくるのかもしれないが、何言ってるんだ、明治の初期、新しい概念をどうやって学び、教えるかって、懸命になってたんじゃないか、それに取り組むのが教育者だろうが、できない、難しいとか言っているんじゃない。

学校で教えられなかったことは、事実として認識してはいるけど、そこに責任を転嫁する気はない。そもそも学校で教えてくれないことだらけじゃないかw 必要なことは自分で学べって話だ。

双方向のメディアの発信者として、受け手として、然るべき能力は自分でつけるしかない。

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